フィリピンの歴史はいつ頃から始まったのでしょうか・・・




           



パラワン島で発見された石器群から、この地域の人々の歴史が、少なくとも4万年前には存在していた事を示しています。

一方、文字という形で残された歴史は、マゼラン一行がスペイン出国後の大航海の途中にフィリピンに立ち寄った際に、その随員であったピガフェッタという人が、その事を記述した1521年から始まったとされています。

ところが近年になって、16世紀初頭のスペインの来航よりも621年も早い900年に文字が刻まれた銅板が、マニラのラグナ地方にあるルンバン川がバイ湖に注ぐ河口付近で発見されました。

しかし、この銅板は、その重要性を認識されないまま、骨董屋の間を渡り歩き、1991年1月に、マニラの国立博物館に引き取られました。

この銅板には10行の小さな文字が、刻みあるいは押捺によって記されていて、裏面にまでくっきりと跡が出ています。

この銅板に残された銘文の解読の結果、この文書は古代マレー語に属し、使われた文字は古代ジャワ文字で、その初期段階(750〜925)に書かれた物と結論付けられました。

この時期の古代ジャワ文字は、広く東南アジア各地で発見されているようです。銘文に古代マレー語には、サンスクリット語とジャワ語の単語が含まれているそうです。そのうちのいくつかは、タガログ語の語源となっているものもあると考えられているようです。

この銘文には、現在訳されているところでは『ある身分の高い役人が1キロの金を借りたが、それを返済できなかった事をめぐる顛末』が記されています。

この銅板は、見つかった場所の名前を取って『ラグナ銅板・・・Laguna copperplate inscription』と呼ばれています。


               


・・・マレー人が築いた文化・・・

フィリピンの先住民族といわれているネグリト族・アエタ族の祖先と思われる頭蓋骨がパラワン島で発見されています。調査の結果、今から2万2千年前のものと判明・・・これがフィリピン最古の人類ということになっています。

太古はアジア大陸と地続きだったフィリピンが、現在のような島国になったのは、今から7000万年前のことといわれています。そして、紀元前1500〜紀元前500年には、マレーあたりから新しい人類が渡ってきて、青銅器を使った水田耕作を行った痕跡が残されています。

とくに、ルソン島北部のバナウエィにある、山の斜面に段々に作られた水田(ライステラス遺跡)は、広く世界に知られています。

その後16世紀までの間に、マレー人はどんどんフィリピンに渡るようになり、建築技術や
耕作技術などに独自のものを作り上げていくようになります。

マレー人の影響は、そのほかにも海外貿易にまで及びます。インド〜中国間の商船(ガレオン船)寄港地として最適な立地にあったフィリピンは、中国陶磁器と引き換えに、木材や金を輸出していたといわれています。

また、マレー人は宗教をフィリピンに持ち込んだことでも知られています。1400年以前に、ミンダナオ南部のスールー諸島でイスラム教が広められるようになり、その波はフィリピン全土に広がりました。なかでも有名なのは、1475年にミンダナオ島の初代国王(スルタン)になったシャリフ・モハマド・カブンスワンです。

カレの布教の痕跡は、キリスト教圏のフィリピンにあって、今でもミンダナオ島が唯一イスラム教が根強い地域である事からも、うかがい知ることができます。



                  



・・・スペインの侵攻・イントラムロス・・・

さて、フィリピンの最初の苦悩はポルトガル人の探検家マゼランが、スペイン国王カルロス1世の命を受けて世界1周の航海途中に、フィリピンのセブ島の近くのマクタン島に立ち寄った事から始まってしまいます。

マクタン島に上陸したマゼランは、マクタン島をスペイン領土と宣言・・・それに激怒した当時の首長ラプラプと交戦状態に入りました。この結果、マゼランは戦死する事になります。

しかし、スペインはそれを皮切りに、その後も次々に遠征隊をフィリピンに送りました。そして1565年、レガス率いる艦隊がボホール島に上陸・・・1571年にはマニラを陥落して、ついにフィリピンをスペインの植民地(コロニー)にする事に成功しました。その功績から、レガスピは初代総督に就任しました。

当初レガスピはセブに本拠地を置きましたが、地元住民の抵抗にあうとともにポルトガル船の攻撃等でセブを離れざるを得なくなり、まずセブから島ひとつをはさんで北西に位置するパナイ島へ本拠地を移しました。しかし、ここでも食料調達が上手くいかなかったようです。



                  



そこで、次に目をつけたのがマニラでした。

当時マニラはブルネイ王国の通商前哨基地で、ルソン島最大の町としてこの海域では広く知られていました。バイ湖から流れ出すパシグ川の河口に位置し、バターン半島により南シナ海から遮られた湾が前面に開けるマニラの立地は、通商拠点として理想に近く、すでに中国船も出入りしていたようです。

1570年5月、レガスピにルソン島遠征を命じられたゴイチは、配下の将校5人・火縄銃兵90人・船乗組員20人他を率いて、大砲3門搭載の中国式帆船「サンミゲル」、フリーゲート船「ラ・トルトゥガ」、および15隻のプラウ(平底三角帆船)に分乗してパナイ島からマニラに向け出発しました。

途中、ミンドロ島などの港に立ち寄って住民との友好関係を築いた後、マニラ湾入りし、沖合いに停泊して、ルソン大王の称号を持つソリマン王と叔父のラヤ王に使者を送りました。

数日後、首尾よく友好関係樹立に成功しましたが、ソリマン王の部下から戦争を仕掛けられ、一戦を交える事になりました。逆襲に転じたスペイン軍は防御用木柵を乗り越えて王の要塞内になだれ込み、火を放って集落を全焼させましたが、モンスーンの到来で逆風になるのを恐れたゴイチは急いで帰途につきました。



              



翌年4月、レガスピは全軍と艦船を率いてマニラに向かいました。同伴者の記録では、5月中旬マニラ湾に到着したスペイン艦隊の威容を目の当たりにしたマニラに王達は、直ちに使者を遣わして前年の部下の不始末を詫び、友好関係の維持の希望を表明した事になっています。

かくしてレガスピはパシグ川河口左岸にスペイン人居住区の確保に成功し、6月にはマニラ市誕生を宣言・・・首都建設に入りました。

ここが、スペイン植民地時代の城壁都市イントラムロスです。

その後、333年の長きにわたって、スペイン統治の時代が続きます。また、スペイン人たちは、この間にフィリピン人にキリスト教を布教することに努めました・・・いまでも、フィリピン国内に数多く見られる教会に、当時のスペインの権勢がしのばれます。しかし、いかにスペインが強力だったといっても、ミンダナオ島のイスラム教まで改宗させることはできませんでした。

このあたりにも、この時代以降の歴史の核心部分にしばしば登場する、フィリピン人の反骨精神をかいま見ることができます。

スペイン統治の間にも、オランダや中国はしきりとフィリピンを狙っていました。しかし、フィリピン統治は強固で、他国に譲る事はありませんでした。




                   



・・・スペイン統治の終わり・・・

スペイン統治に終止符を打ったのはフィリピン民衆でした。スペイン統治時代にヨーロッパに留学していた若き指導者達が中心となって、フィリピンの独立運動を進めました。

なかでも、ホセ・リサールはペンを持って民衆に訴えました。彼の言動はスペイン当局にも要注意人物とマークされるようになり、結局1896年に絞首刑に処せられましたが、このことがフィリピン国民を蜂起させる引き金になりました。

リサールは「フィリピン解放運動の父」とされ、今でもマニラの中心部に彼の名を冠した公園が広がっていますし、地方の公園などにも必ずといって良いほど彼の像が建っています。

リサールの跡を継いで、民衆を指導したのはボニファシオでした。彼は「カティプナン」という秘密結社を作ってスペインに対抗・・・リーダーがエミリオ・アギナルドに代わると独立戦争はますます激しくなっていきました。

ちょうどそのころ、スペインの国力にかげりが見え始めていました。急速に経済が悪化しキューバをめぐってアメリカと交戦状態に入っていました。そのすきをついて、アギナルドはフィリピン独立を宣言・・・アメリカと組んで、ついにスペインを駆逐しました。



           



・・・終わらない苦悩・・・

しかし、フィリピンの苦悩はまだまだ続くのでした・・・

これでフィリピンは完全に独立できるという民衆の夢を打ち砕く裏取引が、アメリカとスペインの間で秘密裏に進められていたのでした。なんと、アメリカは2000万ドルを払って、メキシコ・グァム・フィリピンの統治権をスペインから譲渡されていたのです。

このことは1898年の「パリ平和条約」でも批准され、約40年強のアメリカ統治時代が続きます。

フィリピン第2に苦悩の始まりでした・・・

アギナルドはこのことに激怒し、激しく抵抗するが、結局アメリカに逮捕されてしまいます。しかし、彼の逮捕後も民衆運動のうねりはおさまることはありませんでした。

ついにアメリカは、フィリピンの自主統治を認め、フィリピン国民の教育水準向上に尽力しました。フィリピン国民の公用語として英語が使われるようになったのも、このことがあったからです。

しかし、ここにきてまたひとつフィリピンを脅かすものが現れました。それは、大東亜共栄圏の旗印のもとに、フィリピンに攻め込んだ日本でした。第二次世界大戦での出来事でした。

ついに日本は、1942年1月、マニラを陥落させ、1945年8月の終戦までの約3年間、フィリピンは日本の統治下におかれる事になりました。しかし一方で、日本がおいた対日協力政府とは別に、セルジオ・オスメニアによる亡命政府は存続していました。フィリピン独立運動の炎は、細々ながらも消える事はなかったのです。



            



・・・第二次世界大戦後のフィリピン・・・

フィリピンの真の独立が現実のものとなるのは、1945年のマッカーサーによるフィリピン独立が宣言されてからです。

1946年7月4日、くしくもアメリカの独立記念日と同じ日に、フィリピンは名実ともに独立を果たすようになり、フィリピン共和国を名乗る事になります。初代大統領は、現在のメトロ・マニラのメインストリートに冠されているロハスです。

しかし、ロハス政権もしだいに腐敗するようにまりました。経済的・軍事的にフィリピンを支援していたアメリカは、その事を憂慮し、当時の国防相だったマグサイサイを大統領に据えました。

その後、ガルシア、マカパガルを経て、1965年にマルコス政権が誕生しました。それまでの政権が1期ごとに代わったのに対して、マルコス政権は再選を重ね、イメルダ婦人とともに権勢をほしいままにして、マルコス王朝と呼ばれるまでになりました。



しかし、植民地時代と変わらない引き締めなどで、民衆の怒りは徐々に高まりました。そのつど、マルコスは戒厳令などの強権を発令しますが、逆に民衆の怒りをあおる事になり、民主化運動の指導者だったベニグノ・アキノが1983年にマニラ空港で暗殺された事を契機に、マルコス政権は衰退していく事になりました。


マルコスの終焉を決定づけたのは、1986年の大統領選挙でした。まず、アメリカが今までのマルコス支援を打ち切りました。さらに、故ベニグノ・アキノの未亡人であるコラソン・アキノとマルコスの一騎討ちは、権勢をほしいままにしたマルコスが国民と国軍を敵に回すことになり、結局コラソン・アキノの勝利に終わりました。

マルコス一族はハワイへ逃亡・・・
そして1989年、マルコスはハワイで亡くなりました。


          


1992年6月からは、マルコス退陣劇の国軍指導者であったフィデル・V・ラモスが大統領に就任、その後映画俳優出身のエストラーダ・・・そして2001年のピープルパワー2でそのエストラーダを退陣に追い込み、アロヨ(マカパガルの娘)が現在の大統領となっています。





文章:まさとも 編集:鈴木 (参照文献 アジア読本フィリピン 世界百都市フィリピン)



                           
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