【セブの子供達とのエピソード】       



1.赴任

私が、この地セブ島へ初めて足を踏み入れたのは、1999年7月の事でした。
 

その時には現地スタッフが1名に、その他現地の協力者が居て、

書類の上では160名弱の奨学生が、一応登録されている・・・という状態でした。

           

その時の状態は、あくまでも財団を運営する個人企業オーナーと、その知己たちによる極めて個人色の強いボランティア活動であり、基本的な路線としては、就学に必要な学用品を年に一度、供給した後は現地スタッフに事務所管理を任せて、後は現地スタッフから‘ファックス’で上がって来る報告書と出金要求に応じて、地元の日系企業で管理して頂いていた銀行口座から現地スタッフへ給与や経費を払出し、子供たちからは年に数回の‘お礼状’は上がって来るものの、成績の管理や就学状態の把握は全く為されておらず、言わば、‘寄付金の垂れ流し状態’になっているというのが現状でした。



             

そんな状態の中では現地スタッフのモラルも低く、奨学生たちの質も、元々、地元有力企業であるサンスター新聞社の情報ネットワークを使って集めた生徒と、スタッフやその他関係者のコネクションを頼りに集まった生徒たちが混在しているという状況で、そもそものレベルがバラバラだった上に、そうした支援をする側のコンセプトも、‘貧乏な学生たちが就学できるように助けたい’と言う単純明快ではあるけれども、極めて抽象的なものでしかなかったと言わざるを得ませんでした。


そんな中で、私のキャリアは当初、母体企業に社員として籍を置きながら、日本から現地事務所のコントロールをし、時折、現地へ出張して、状況の視察を行う形でのスタートでした。その為、私の業務は翻訳であり通訳が主な仕事となっていました。
 
 
が、そうした曖昧な活動からの脱却を図らないと「実のあるモノにはならない」と思い、2000年の前半から現地の活動を比国政府公認のものとする為に、財団の設立認可を申請したところ、その当時現地担当であった比人スタッフが日本の本部に対して、待遇の改善他を要求し、その他の利権に絡む現地の取り巻きと共に、財団の支配力を自らの手に収めようとした動きが出て来て、一時は、我々の活動そのものの継続すら危ぶまれる事態となりました。


しかし、運良く現地の日本人からの協力も得られて、現地の有力且つ優良な弁護士事務所(ACCRA LAW OFFICE)の紹介も受け、何とかその危機的な問題を解決する事が出来ました。その後、やはり、日本人が直接的な活動への関与をする事が必要…と言う形の発想の元、‘その騒動’を先頭に立って納めた私が現地駐在の責務を帯びる事になり、2000年11月には、ここセブでの駐在生活を開始したのでした。
 
 
          


しかし、上記のような背景をして、奨学生として登録されていた筈の学生の中には、名前は記録されているにも関わらずその実体がなかったり、また、或いは、とうに転校や退学をしていて、セブの地にはいないのに、‘奨学生’として登録が為されたままになっていたりと言った状態がある事が、調べていく内に明らかになって行ったのです。
 
そうした事から、先ずは、ちゃんとした活動をするに当たっての下地作りとして、奨学生一名ずつの確認と面接、それに学校に出向いての裏づけ…などなど。

実は、私のセブ駐在直後の任務はこんな所から始まりました。


その結果、ちゃんと学生として、その時点で通学実績のある生徒が130名程度まで確認でき、その大半の生徒は、具体的な基準で、60名前後のクラスの中、上位5番程度に位置する生徒たちではあった事が判り、不安の中にも一筋の光りも垣間見えて来ました。
 

ただ、問題は、その中では少数派ではあったのですが、十数名の生徒については成績不良であり、その中でも更に酷い者になると、小学校の課程の中で、2年も続けて留年していたような事実も発覚し、‘これでは折角の支援が全く意味を為さない’と強く危機感を感じ、しっかりとした採用基準と学生規約を制定する事にしました。


           


成績の基準は、やはり、大多数の生徒の方に合わせて、クラス内の順位では5位以内、悪くとも10位以内の成績を維持出来る様に努力している者とし、評点では、全教科85%前後を最低ラインとするガイドラインの設定にしました。


この数値は、例えば、志願者数が膨大になる事が予想される一流大学での俗に言う‘足きり’の一つの基準にもなっている事、それと、私立大学で、学内施設で働く事で学費免除または、減額措置を受けられる成績の標準が、この辺りになる事で、所謂、‘優秀な学生’と言う抽象的な表現を具体化した客観的基準との判断が出来た為です。


また、その時点でセブ周辺の就職事情も調査したのですが、やはり、原則4年制大学を卒業していないと、(或いは最低でも大学2年生を修了していないと)まともな職業に就くのは著しく難しいという事が判明した為、奨学金制度を謳い、その実効性を考えるのであれば、やはり私達がお世話をする奨学生達が大学を修了できる事を前提にしなければならない…この辺りの現在の活動に繋がる具体的な枠組みもこの時点からスタートしました。

 
 
       


ただ、幾ら成績不良であるからと言って、一旦は面倒を見ると言って採用した生徒達ですから、無闇に退会させる事は無用な摩擦や誤解を生みますし、チャンスは公平に与えなければとの判断から、そうした対象になる生徒とその父兄にはきちんとした説明をし、
 
1) 即時、完全に当方提示の標準を満たしてくれとは言わないが、今学年終了時に1ポイントでも良いから前年度よりは改善努力をしたと言う事を事実でもって証明し、3年以内には当方提示の標準を満たす事。

2) 欠席日数が全出席日数の1割を超える場合、病気他の正当な理由がない限り、奨学金受取継続を認めない事。

3) 病気療養等の正当な理由なしに留年と言う事態を招いた場合は即時、退会処分とする事。

…上記3点を確認したのでした。



            

また、私が学生との直接面談を行った事で発覚した事は、同じ奨学生の中でも、それまでの現地比人スタッフと、その関係者のコネクションで奨学生になった生徒は、半ば必要以上に手厚い支援があったのに対して他の大多数の学生については、年に一度の学用品支給後は実際に何も支援が為されていなかったという事実です。

(*実はこれは比国社会の縮図で、政府から地方まで植民地の流れを受けて全て一部有力者とその関係者に私物化されている状態があります)

まず、その方式を改め、学校の生徒指導部他の協力も得ながら、学生たちが年間に使う学費の標準を求め、過不足のない範囲で一人ひとり公平に、固定金額を月々支給する事、更には彼ら学生が病気をした際の治療費を全額支給すると言う事を相次いで決めました。


そうした一連の‘第一次改革’の成果は、‘コネ’はなくとも能力のある学生の才能を伸ばしてやる事が一定以上のレベルで出来た事と、情緒的には気の毒ではあっても、学業を修める事で成功すると言う目的にそぐわない学生たちの排除ができた事の二点だったと思います。

ただ、特筆すべき事は、そうした排除せざるを得なかった子供たちやその家族にも、その時点できちんとした話し合いを持った事、そして、彼らには、ちゃんと言い含めた上で、改善するチャンスも公平に与えた事で、もし支援する事が続けられなくなっても逆恨みをされる事もなく、‘円満に退会’となりました。

また、その時点で、小学校卒業は元より、中学校卒業まで継続できるか否か危ぶまれた女の子2名が、その時から一念奮起して、年を追う毎に成績を上げいき、何と、昨年の6月には、見事、大学の入学に成功したのです。

それは、ただ単に入学しただけではなく、今、この時点での成績も、我々の標準を充分に満たす状態で、彼女達の将来にも期待が持てるようになりました。

西暦2000年から始まった、日本人担当者と奨学生個々との意思疎通と、奨学金を得た後の効果測定…これこそ、私達が‘お涙頂戴のボランティアにはしたくない’と強調する根拠なのです。


          


2.‘責任’と言う概念

さて、現地に駐在が入った直後の2000年後半から2001年前半に掛けては、言わば現地実態調査と必要な枠組みの制定と文書化、そして財団設立準備に明け暮れたのですが、その後、2001年からは、比国政府公認財団となった事、更には、学生採用の基準が明確になった事から、その年は20名の新規採用を加え、奨学生総数150名弱を数える規模になりました。

その時点で学生のレベル的なものも、しっかり把握でき、特に中学生以上の大多数の生徒にきちんとした英語力がついてきた事も明らかになった事から、当方からテーマ別に、英語にてのレポート提出を求める事を、この時点から周期的に始めました。

(*特に、2001年からの新規採用者には、英語での面接を課し、その出来が合否の大きな判断材料とされた為、必然的にその時以来、英語力のある生徒が、より一層、多くなりました)

特筆すべきは、学生たちの動向を観察し、比国の社会状況から考察するに、この国フィリピンが発展途上のまま、前に進めない決定的な原因のひとつではないかと考えられるものの一つとして、‘責任を取らせない社会体制’(その方が都合が良いから)と、それに伴う国民全体の‘責任感の欠如’と言うものがあるのではないか…私の中で、そうした仮説が成り立ち始めていました。

      


具体的には、例えば、比国内で毎年のように海難事故が起きます。そして、その原因の多くは、自然災害と言うより定員オーバーの客船を常時運航していた結果、偶々、海況が悪くなった際に転覆したと言う半ば‘人災’

…そんな事故が後を絶たないのですが、これが繰り返される理由は、その都度、その原因究明を徹底的に行わない事と、責任を取るべき立場の人間が責任逃れをし、それが許されてしまう…そんな社会環境がある事です。

また、記憶に新しいところでは、2006年に番組の公開収録に集まった群衆の誘導を誤った結果、開門と同時に群集が将棋倒しになり、多くの方々が圧死した事件がありますが、‘あの番組’は、一時中断したものの、程なくして再開し、未だに放送されていますし、結局のところ、関係者の誰一人として処分らしい処分もされないまま、もう、‘過去のもの’となってしまいつつあります。

更に古い話になれば、独裁政治で我が春を謳歌した挙句、民衆の怒りと反発を買って失脚し、海外へ逃亡したマルコス大統領の夫人イメルダが90年代初頭には、フィリピンに舞い戻り、更にはあろう事か、その後、下院議員にまで選出された…そんな事実もあります。(*これについては比人たちの中にも、マルコス時代の暴政の影にはイメルダが居たと言う認識があり、それにも関わらず、何故、こうした状況となってしまうのか、理解に苦しむところです)

要は、何かしらの問題が出れば、それを真摯に受け止め、原因の究明をし、その経過の中で責任の所在を明らかにし、改めるべきところは改め、責任を取るべきところは取り、その結果、抜本的な改善が出来るようになるのが‘理’と言うものですが、まず、入り口の段階で、責任逃避をして事実を歪曲化する…これでは物事を改善する機会を逸する事になる訳です。


            


その当時、特に成績が落ちた生徒たちに、その理由を尋ねると、‘先生が悪い’と言う事を平気で言う者が殆どでしたし、奨学生の父兄にしても、‘うちの子は悪くない。先生が悪いし、学校が悪い’…こうした趣旨の発言をする者がやはり殆どでした。

(…反面、確かに教師のレベルが低く、学級のコントロールが出来ない‘腹いせ’に、その対象の学級の生徒全員の評価を放棄し、全員に及第点ギリギリの評価をつけるような教師が居た事も、その後の調べで発覚いたしました。ただ、ほぼ全員、判で捺したように同じ発言をする事には、何らか、彼らの考え方に共通するものがあると感じました)


そんな状態の中で、半ば、一種の意識調査のような意味合いを込めて、全奨学生中、中学生と大学生全員に対して、‘自立或いは独立とはなにか、自らの考えをレポートに纏めて提出せよ’と言う課題を出した所、その当時120名強の奨学生の殆どが、異口同音に‘自由である事’と言うような内容の文書を書いて来ました。

が、その内、‘自由であると同時に、その自由意志による決断の結果、生じた事柄には全て自分が責任を負う’と言う事を述べた生徒は、その内のたったの3名でした。

この3名と言う結果を多いと見るか少ないと見るか…それは意見の分かれるところだとは思います。が、私の考えは、これらの生徒たちは、言わば選りすぐりのエリート集団にも関わらず、この認識は甘いのではないか、そして、その結果は、やはり、ここ比国社会の‘写し絵’ではないかと言う事でした。


その直後に、私なりの見解を出来るだけ平易な英文で表し、生徒たちには自立・独立する事には必ず自己責任が伴うのだと言う事を説明し、やりたいようにやって、その結果が悪かったなら、言い訳をして、責任を取らずに逃げる事は、最早、自由ではなく、‘気まま’であり、‘我侭’であると言う事を付け加えておきました。


また、奨学金を受け取る際に、交わしたお約束−成績面他−については、一旦、自らが納得して、それを条件に支援を受け取ると言う意思表示をしたのだから、それにそぐわない結果が出た場合には、その責任を取る(退会する)事もあり得るのだと言う事を確認したのでした。


                

その後、毎年の新規採用後のオリエンテーションを受講する事を義務付け、支援を受け取る事は、ただ、‘ありがとう’と言う事だけではなくて、結果責任を取る事を求められているのだし、受益者としての約束とマナーをしっかり守ってこその奨学金制度である…そうした意識付けを徹底するようになりました。


その甲斐あってか、その後、我々の傘下の学生たちから‘脱落者’が出る事は大変に少なくなりました。また、誇りに思うのは、こうした仕組みの中で大学まで卒業した生徒たちには、この比国の状況をして、大学を卒業しても直ぐに仕事を見つけられる人は、その半数にも満たないと言われる中で、現在までに、職が見つからずにブラブラしているような人間は、私達のお世話する奨学生達からは誰一人として出ていないと言う事です。

そして、それこそが「結果の出る、実効性のあるサポート」だと信じています。



文責:現地セブ島NGO代表 濱野




              

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